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<戦後80年>堺大空襲「無縁仏」供養続け(読売新聞)

地蔵尊保存会会長「百回忌までは」

 1945年7月10日未明の堺大空襲では、1860人もが命を落とした。引き取り手がない遺骨や身元が分からない遺骨も多く、最も 凄惨せいさん を極めた旧龍神地区では、地元有志が戦後、犠牲者800余柱を弔う「戦災無縁地蔵尊」(堺市堺区)を建立し、慰霊を続けている。保存会会長を務める金銅美幸さん(85)は「百回忌までは鎮魂を続けたい」としている。(福永正樹)

 堺市では45年3~8月、5次にわたって米軍の空襲を受け、市街地一帯が焼け野原となった。中でも、7月10日未明の4次空襲は「堺大空襲」と呼ばれ、旧市内の6割が焼失。約1万9000戸が全半壊して7万人が 罹災りさい し、死者1860人、重軽傷者は972人に上った。

「堺の空が真っ赤に燃えていた」

 当時、東大阪市に住んでいた金銅さんは、姉から聞かされたあの日の様子を鮮明に覚えているという。

 南海本線堺駅の南側に位置する旧龍神地区。戦前は、関西屈指のリゾート地だった大浜への玄関口として栄え、少女歌劇や遊郭などが並ぶ歓楽街だった。周辺には軍需工場も立ち並び、大空襲では、 焼夷しょうい 弾による炎とゴム工場から噴き上げる黒煙に包まれ、多くの人が逃げ場を失った。

 南海本線の龍神駅に停車中の急行電車の乗客は米軍機による機銃掃射で命を落とし、遊郭の女性たちは橋が焼け落ちて逃げ遅れた。阪堺線のガード下に避難した人たちは猛炎と酸欠で重なり合うようにして亡くなった。土居川の水は熱湯と化し、川面は炎を避けようと飛び込んだ人の遺体で埋まったという。

読売新聞

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