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熊野御幸の道・熊野古道紀伊路②大阪府下の区間について(山と渓谷オンライン)

熊野御幸(くまのごこう)とも呼ばれる熊野詣(くまのもうで)は平安時代中期、宇多(うだ)上皇によって始まったとされており、その後、白河上皇、鳥羽上皇など上皇たちによって毎年繰り返され、活況を呈することになる。紀伊路(きいじ)はこの熊野御幸の道として利用され、江戸時代には武士・農民をはじめ一般庶民による熊野詣でが盛んに行われ、「蟻の熊野詣」と形容されるほどにぎわった。

写真・文=児嶋弘幸

はじめに

紀伊路の序盤である大阪府下はほぼ市街地歩きであるが、時代を異にして古くから残る重要な史跡が重層的に多く点在しており、見どころは多い。ただし現代では市街地化が進み、いにしえの道筋が不明瞭もしくは道筋自体に諸説ある場合がある。今回は大阪府下の区間について概略を紹介しよう。

大阪府下はJR阪和線や南海電鉄などが並行しておりアクセスしやすい。以下では、ある程度ポイントを区切って紹介しているが、ご自身のペースや計画に合わせて適宜調整いただきたい。

〉紀伊路大阪府下概略図
紀伊路大阪府下概略図

八軒屋浜から住吉大社
約9.6km・約3時間

京都をスタートした熊野御幸の一行は船で淀川を下り、まずは現在の大阪天満橋付近の八軒屋浜(はちけんやはま)に上陸。その後、熊野九十九王子の第一王子である窪津(くぼつ)王子でお祓いを受け、熊野をめざした。窪津王子は、八軒屋浜南西にある座摩(いかすり)神社行宮(あんぐう)跡にあったとされている。

御祓筋(おはらいすじ)を南下し、古い家並みが残る上町(うえまち)台地の五十軒筋から上汐筋(うえしおすじ)を進むと聖徳太子創建の四天王寺につきあたる。当時、太陽が沈む「西」の方角に極楽浄土があると信じられ、四天王寺の西大門は夕陽を拝する聖地としてにぎわった。

ここで高低を色分けした地図と紀伊路を重ね合わせてみると、台地上をたどっているのがよくわかる。熊野詣の時代、海岸線は現在よりも内陸にあったと思われるので、高台が選ばれたのだろうか。

〉地理院地図vector・地理院タイル(標高タイル)を加工して作成
地理院地図vector・地理院タイル(標高タイル)を加工して作成

四天王寺西大門を出て、谷町筋を南進する。阿倍野筋を歩き、阪堺(はんかい)電車上町線沿いの旧街道を進む。陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)の生誕地とされる安倍晴明神社、阿倍王子神社が続く。よく知られている通り陰陽師は、政治に必要な暦や天変地異を予測する技官でもあり、古代日本では重要な政府の官僚職だった。

上町線の軌道に沿って南へ。万代池(まんだいいけ)のほとりを進み、南海高野線の踏切を渡る。老舗の味噌店の四ツ辻を西に曲がると、住吉大社の東門に着く。

住吉大社から仁徳天皇稜、大鳥大社
約12.6km・約3時間10分

街道の面影を残る遠里小野(おりおの)の集落を南進し、大和川を渡る。浅香山(あさかやま)駅の東出口から南下すると境王子跡で、小公園のそばに大きな石碑が立っている。

住宅地の間を南進し方違(ほうちがい)神社へ。方違神社は、摂津、河内、和泉の三国に接する場所にあることから方位のない聖地といわれ、方災除けの神として崇敬されている。

反正(はんぜい)天皇陵の東側の路地を進むと、西高野街道の十三里石と出合う。この付近は、かつて西高野街道、熊野古道、そして日本最古の官道ともいわれる竹内街道が交差する重要拠点としてにぎわった所だ。

続いて仁徳天皇陵の西側のウォーキングロードを経て御稜通りへ。熊野詣の一行は熊野詣の途中で、陵墓に参拝していったのだろうか。

このあと古道は南進ではなくなぜか西進し、千利休(せんのりきゅう)ゆかりの南宗寺(なんしゅうじ)へと向かう。ここで再び、高低を色別に表現した地図と紀伊路を重ねてみよう。地形的に見ると、高台が続く履中(りちゅう)天皇陵方面に向かうのが自然な気がするが、ちょうど仁徳天皇陵のそばから西に曲がる。これには何か要因があると思われるが、現時点では不明だ。

〉地理院地図vector・地理院タイル(標高タイル)を加工して作成
地理院地図vector・地理院タイル(標高タイル)を加工して作成

南宗寺西端の山之口橋(やまのぐちはし)から古道は再び南下、石津(いしづ)神社を経て日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭る大鳥大社へと至る。

大鳥大社から久米田
約12.7km・約3時間10分

大鳥大社からは、鳳本通(おおとりほんどおり)商店街を通り抜け、大阪府道30号と重複・交差・並行しながら進む。

ここで再び、紀伊路の概略地図を以下に示しておこう。

〉紀伊路大阪府下概略図
紀伊路大阪府下概略図

JR北信太(きたしのだ)駅の西側には、信太森葛葉稲荷(しのだのもりくずのはいなり)神社がある。安倍保名(あべのやすな)と白狐に化身した葛葉(くずは)姫との葛の葉伝説で知られており、この伝説に登場する葛葉姫と安倍保名の間に生まれた子が、のちの安倍晴明ともいわれている。

また信太森葛葉稲荷神社の東の丘陵地は、古くから信太の森と呼ばれた聖(ひじり)神社の境内地で、信太の森の鏡池は、安倍保名に助けられた白狐が水面に姿を映して、葛葉姫に変身した所と言い伝えられている。また、かの清少納言(せいしょうなごん)は『枕草子』で「森は信太の山」と記していることから、当時この周辺は大きな森をなしていたことがうかがえる。

聖神社一の鳥居からは、信太の森の裾付近をJR阪和線とほぼ並行して通り抜け、平松王子跡を経て泉井上(いずみいのうえ)神社へ。泉井上神社は、和泉国の国名の起源とされる神社だ。

古道は府道30号と合流、柳田橋を渡る。南詰に「右小栗街道信達郷」の道標石が立っている。道標に従い右折、すぐ左の小栗街道へ。松尾川緑道を進むと小栗橋がかかっている。このあたりの古道には、土車に乗せられた小栗判官が通ったとされる小栗街道の名が残っている。小栗街道と熊野古道は必ずしも同一ルートとは限らないが、目的地としては熊野をめざしている道である。

さらに進み、JR久米田(くめだ)駅へ。駅の西裏付近には池田王子の旧跡があり、また駅の東側の久米田池一帯には久米田古墳群、久米田古戦場跡、久米田寺など、当地の古い歴史を伝える史跡が数多く残されている。

久米田から南近義神社
約9.3km・約2時間20分

久米田から南下していくと、府道30号から東側の古道に入った所に半田(はんだ)一里塚があり、隣に「小栗街道」の石碑が立てられている。

水間(みずま)鉄道を渡り、JR和泉橋本駅にて阪和線の踏切を渡る。府道64号から脇道に入って進むと、近木(こぎ)王子を合祀する南近義(みなみこぎ)神社がある。

南近義神社から樫井古戦場跡
約8.3km・約2時間

南近義神社から貝田橋を渡り、四角池を右に見て国道26号を横断。池の堤防に出たのち、府道64号と重複・並行する。府道64号は紀州街道とも呼ばれた道で、江戸時代の参勤交代の道として利用され、熊野街道(古道)とも重複する。佐野王子跡から国道26号を斜めに横断し、市場(いちば)の道標「すぐ和歌山道」に従い直進。関西空港自動車道をくぐり、樫井(かしい)の旧街道に入る。

樫井は五体王子の一つ樫井王子跡のあったところで、熊野御幸の際には相撲や白拍子の舞などが奉納されたという。やがて樫井古戦場跡へ到着。徳川方の浅野勢と豊臣方の大野勢が、ここ樫井川付近で激しい戦闘を繰り広げた所だ。大阪夏の陣の始まりともいわれるこの戦いでは、豊臣方が大敗を喫することになる。

樫井古戦場跡から山中宿
約7.4km・約1時間50分

樫井古戦場跡を過ぎ、境内に海会寺(かいえじ)跡の史跡公園が整備されている一岡(いちおか)神社に着く。この後、信達大苗代(しんだちおのしろ)、信達市場(しんだちいちば)の旧街道を進んでいく。

信達一の瀬(しんだちいちのせ)王子跡を過ぎた所でJR阪和線の踏切を渡ると、古道はJR阪和線と並行するようになる。やがて山あいの風景になり馬目(うまめ)王子跡を過ぎると、いよいよ山中宿に入っていく。山中宿は江戸時代に20軒近くの旅籠が軒を並べていたという宿場町で、石畳などが整備され紀州街道の雰囲気と面影を今に伝えている。

山中宿から紀の川
約13.4km・約3時間20分

山中宿から、府道64号をたどって山中川沿いに南進を続ける。大阪府と和歌山県の府県境の堺橋を過ぎ、和歌山県の最初の王子社である中山王子跡へ。この後いよいよ熊野古道最初の難所といわれた雄ノ山(おのやま)峠越えにかかるが、今では阪和自動車道やJR阪和線にとって代わられている。雄ノ山峠を越え、下りかけた所から紀の川(きのかわ)がちらりと見える。

湯屋谷に下って分かれ辻を左に下ると、かつての関所である白鳥の関跡、山口王子跡に着く。この後、和歌山県道7号と合流し、西進。上野集落の路地に入ると、中ほどに川辺王子跡がある。古くは、紀の川がこのあたりを流れていたことがその名の由来とされる。中村王子跡、力侍(りきし)神社を経て、川辺渡しの紀の川堤防に登り、川辺橋を渡って布施屋(ほしや)駅へ向かう。

ここまで大阪府下の概要を紹介してきたが、次回からは和歌山県内の区間について紹介していく予定だ。

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