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【和泉市】南海電鉄“ナゾの終着駅”「和泉中央」には何がある?(文春オンライン)

 北に千里中央があれば、南に和泉中央あり。新大阪駅で新幹線を降りて地下鉄御堂筋線へ、というお決まりのコース。ここから北に向かう電車に乗れば千里中央へ。反対に、梅田・天王寺方面の電車に乗ったなら、途中で降りたりせずに終点のなかもず駅まで向かおう。

 なかもず駅で降りたら地上に出て、目の前の南海電車へ。ここで「和泉中央行き」の電車に乗り継いで、約15分ほど揺られた終点が和泉中央駅だ。

南海電鉄“ナゾの終着駅”「和泉中央」には何がある?

 新大阪駅から和泉中央駅までは、ざっと1時間ほどの旅だ。それでは千里中央と対にするには遠すぎる、などと言われるやもしれぬ。が、天王寺駅あたりからならば、どちらも40分前後で五分と五分。千里中央がキタのニュータウンならば、和泉中央はミナミのニュータウンといったところだろうか。

 そういうわけで、今回は和泉中央駅にやってきたのである。ミナミのニュータウン、いったい何があるのだろうか。もしや、千里中央駅でも見かけたような、廃墟と化した一時代前の商業施設をここでも見ることができるのか……。

 などという不埒な期待はまったく裏切られた。

 掘割の中を走ってゆく南海電車泉北線。すぐ隣には阪和自動車道も並行している。終点の和泉中央駅も掘割の中にホームを持ち、頭の上を橋上駅舎が覆い尽くす。

 階段を登って改札を抜けると、“中央”を名乗る駅にふさわしい立派な駅舎が待っていた。そのすぐ脇、たぶん直下には阪和自動車道が通っているのであろう駅南側の一角には、大きなバスロータリーがある。

 改札の前からエスカレーターを使って上に登ると、ロータリーを跨いで南側、また駅の北側と直結するペデストリアンデッキだ。

 駅の北に出ればスーパーマーケットのコープや学習塾などが入った雑居ビル。バスロータリーを跨いで南に行けば、関西ではおなじみのスーパーチェーン・イズミヤの運営する商業施設「エコール・いずみ」。

 これだけでもう、チェーン店から何から、ひととおりすべてがそろう町だということが実感できる。

 さらにそれだけではなく、周囲にはいくつもの商業施設が目白押し。ヤマダにジョーシンという家電量販店が和泉中央線という大通りを挟んですぐ近くにあるし、MEGAドン・キホーテもその名の通り大きな店構え。

 和泉中央線沿いを中心に、いわゆるロードサイドタイプ、広い駐車場を備えたチェーンの飲食店もずらりと並ぶ。駅の南側、エコール・いずみのさらに奥には大きなコンサートホールを持つ和泉シティプラザという文化施設まであった。駅の北西には自然の地形そのままにほどよい起伏に富んだ大きな公園も。

 まったく至れり尽くせりというべきか、この和泉中央という駅に来たれば、日常生活に必要なあれこれはすべからく手に入る。そういう巨大な商業ターミナルだった。

どうして都心から離れたこの駅にこれほど“中央”っぽさがあるのか?

 駅の周りを歩いてあちこちの店に入ったりなんだったり、別にこの町でなくても見かける店が多いのはそうなのだが、退屈しないことだけは間違いない。

 さすが和泉“中央”駅なのだ。およそ廃墟の商業施設とはまったく無縁の明るい終着駅・和泉中央駅である。

 それもそのはずで、千里中央駅が1970年の開業なのに対し、和泉中央駅は1995年にできた。歴史が四半世紀も違うのだ。

 町の開発だってそうだ。千里中央駅は、1960年代初頭から開発が本格化した千里ニュータウン開発のいわば総仕上げ。

 和泉中央駅周辺はトリヴェール和泉というニュータウンを中心としていて、起工は1986年、街開きをしたのは1992年のことだ。

 千里ニュータウンが高度経済成長期以降の日本の栄枯盛衰をすべて経験してきたところ、トリヴェール和泉はバブル崩壊後しか知らないニュータウン。それだけ歴史に違いがあれば、町のカラーがまったく違うのも当たり前、というわけだ。

 それは駅前の商業ゾーンから離れても同じこと。駅の近くには大きなマンションが目立ち、奥まったところには戸建て住宅がひしめくエリア。それらもまったく古めかしさを感じさせず、実に自然に現代的な雰囲気を醸している。

陸橋を歩くとやたら若い人の姿が。これは…

 また、和泉中央駅の南側、シティプラザの脇からさらに南に延びている陸橋を歩くと、平日の真っ昼間だというのに若い人の姿が目立つ。

 どういうことかと不審者に間違われないよう注意しながら進んで行くと、陸橋の先の先には桃山学院大学のキャンパスがあるらしい。和泉中央駅開業と同じ1995年にこの地に移転してきたのだとか。

 だから和泉中央は、齢30年ほどのニュータウンにして、学生の町という顔も持つ。

 やたらと引き合いにだしてしまって恐縮の極みだが、千里ニュータウンとはほんの四半世紀ばかりの違いでも、その顔というのはだいぶ変わってくるものなのである。

 では和泉中央、ニュータウンになる以前はどうだったのだろうか。

「和泉中央」の“ニュータウン前夜”に何がある?

 この一帯はいわゆる泉北丘陵といい、大阪府和泉市の中央部にあたる。同じ和泉市でも古くからの市街地は平野部のJR阪和線和泉府中駅周辺だ。

 その名から推察できるように、古代には和泉国の国府が置かれていた一帯の中心も中心。さらに泉北丘陵から東に入った山の裾には和泉国分寺が置かれていた。

 二つの地域の要に挟まれた丘陵地という背景から、泉北丘陵上にも古い時代から集落が発展していたことも間違いないようだ。

そうした古い集落は丘陵の上というよりは、丘陵を削って流れる松尾川や槇尾川といった小河川の造った河谷沿い。和泉中央駅付近では、松尾谷や池田谷といったエリアがそれにあたる。

 いまもそうした町はニュータウンとは明らかに一線を画す風景を保っている。

 駅前から坂道を下って北に行けば「万町」と呼ばれる池田谷の一角。奥には槇尾川が流れているのが見えて、昔ながらの民家や細い路地、その合間には畑もあったりという、かつての泉北丘陵の里山風景を想像させる町が残っていた。

 そうした里山世界の中で、この地域では和泉木綿で知られる綿花の栽培、また和泉みかんとして名を馳せたみかんの栽培が盛んだったという。

 綿花栽培は和泉一帯での繊維業の隆盛をもたらした。みかんはみかんで、かつては和歌山県に次ぐ全国2位の生産量を誇った大阪府。その大部分を生産していたのが和泉の丘陵だったのだ。

里山にやってきた高度経済成長期

 ただ、大阪という大都市から近いこの場所がいつまでも里山風景のままでいられるほど、戦後の経済成長の波は低くなかった。

 少しずつ丘陵上の開発がはじまり、1960年代にはいまのトリヴェール和泉の一部に「婦人子供服団地」なるものが現れている。これは繊維業が盛んだったところから来ているのだろうか。

 そして千里ニュータウンとそれほど変わらない時期に泉北ニュータウンの開発も始まった。

 泉北ニュータウンは和泉市の北、堺市側のニュータウン。そういう順序を辿ってくれば、和泉中央駅付近の丘陵がニュータウンに生まれ変わるのも時間の問題だ。

 1970年代から少しずつ計画が動き出し、1980年代半ばから開発が本格化して現在に至っている。

 こうして生まれた和泉中央のニュータウン。主な交通手段は、南海電車泉北線だ。

 泉北線のルーツは1971年に中百舌鳥~泉ケ丘間で開業した泉北高速鉄道線。もちろん泉北ニュータウンの開発に伴って建設された通勤路線で、1977年には光明池駅まで延伸している。

 ただ、その後しばらくは光明池駅が終点の状態が続き、和泉中央駅まで延伸したのは1995年のことだ。それだけ和泉中央駅周辺のニュータウンが“新しい”ということでもある。

 言うなれば、千里中央の北大阪急行にあっては2024年春に延伸した箕面萱野駅の先輩筋が和泉中央駅、といったところだろうか。

千里中央と和泉中央、ふたつのニュータウンの「ありえた未来」

 ちなみに泉北線もはじめは地下鉄御堂筋線を延伸させる形で、という案があったとか。結果は輸送力に余裕があった南海高野線と接続する形になったが、もしも御堂筋線を選んでいたら。千里中央と和泉中央という“中央”駅を両端に持つなんとも不思議な地下鉄路線が誕生していたことになる。

 それはともかく、いまでは泉北線も南海なんば駅に直通する列車がだいぶ多くなっている。

 有料特急の「泉北ライナー」も朝と夕の通勤時間帯には走っていて、2025年4月1日からは正式に南海電車の一員に。

 昼間の区間急行を使えば、和泉中央駅からなんば駅までは30分。この時間距離に不満を抱く人などいようはずもない。

 ヨソ者からすると、だいぶ遠く南の外れに見える和泉中央駅。だからどうせ……などとうがった見方をしてしまったが、実のところはまったく交通の便にも町そのものの明るさにも優れた終着駅の町なのであった。

文春オンライン

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