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【和泉市】“いずみ”の水をめぐる旅 和泉府中・ラジューム温泉(朝日新聞)

泉の文明

4月というのに肌寒い日が続いているが、待ちきれずに桜が咲き始めている。大阪ミナミ方面での用事が昼過ぎに終わり、なんとはなしに自宅とは逆方向の阪和線に乗った。とくに理由はないけど、私の小さな風呂旅のはじまりはたいていこんなふう。電車が堺の「鳳(おおとり)」を過ぎると、流れる車窓の合間にチラチラと畑が見えるようになる。

大阪湾に面する泉州(旧和泉国)には、堺から南へ海に沿って弧を描くように中小都市がいくつも連なっていて、それらを南海線と阪和線が数珠つなぎのように結んでいる。が、その並び順は、沿線住民でない限り大阪府民でもたぶんうろ覚えだろう。

その中に、海に面していない市が一つある。それが和泉市だ。和泉市の中心「和泉府中」駅の近くには、その名の通り、かつて和泉国の国府があった。とりあえずそこへ行ってみるかと思いつつ電車内で検索するうち、一つ手前の「信太山(しのだやま)」に弥生時代の大規模集落跡「池上曽根遺跡」があることを知って下車した。

だだっ広い遺跡に、復元された弥生時代最大級の巨大建造物「いずみの高殿」がそびえ立っている。建物の威容とともに、こんなものを建ててしまう弥生人たちの執念のようなものが覆いかぶさるように迫ってくる。高殿とともに「やよいの大井戸」も発見され、その内壁に使われたクスノキの巨木が近くの大阪府立弥生文化博物館に展示されているが、そのとんでもない大きさたるや。

この集落ができたのは和泉国の成立より前のことだが、地名の「泉」が示すとおり、ここに豊かな水があってこそ、この地が当時の日本の先進地域の一つになり得たのだろうと感じさせられる。

消えた井戸水銭湯

信太山駅の東側には、2018年まで菊水温泉という小さくて古い銭湯があった。脱衣場に飾られた目の覚めるような絵画と、輝くような地下水を薪で沸かした湯が印象的で、私はそれがいたく気に入り、取材して自著に掲載させてもらった(『レトロ銭湯へようこそ 関西版』戎光祥出版、2015年)。だから私は泉州の中でもここにはピンポイントで何度も通っていたのだが、菊水温泉の廃業後は一度も来ていない。

菊水温泉は深度280メートル、市の災害時協力井戸にも登録された豊かな井戸を有していた。さっき見た「やよいの大井戸」につながる水脈だったのかも…と思って行ってみたが、菊水温泉は跡形もなく、コインパーキングになっていた。

熊野街道から和泉清水へ

その少し山側を熊野街道が南北に貫いている。

京都を出て大阪から紀伊半島南端の熊野三山まで、往復1カ月ほどかかる行程を「蟻(アリ)の熊野詣で」と言われるほど多くの人々が歩いた道であり、江戸期以降は「小栗判官」の物語にちなんで「小栗街道」とも呼ばれる。それを南へ歩いた。

ゆるやかに坂を下り、やがて和泉府中かいわいに至ると、びっくりするほど立派な屋敷など古い建築物が目につくようになる。街道から一歩入れば細かな路地がぐねぐねと交差して迷子になりそう。駅前の喧噪(けんそう)と隣り合わせにこんな古い集落がスッポリ残っているなんて。

すぐ近くの公園の隅に「和泉国府庁趾」の石碑が立っていた。百人一首に出てくる恋多き女性、和泉式部の最初の夫が国司として勤めていた場所だ。彼女の本名は不明で、夫の役職からそう呼ばれていたらしい。

そこから熊野街道を挟んで200メートルほどのところに泉井上(いずみいのうえ)神社がある。文字通り「泉」の「井」の「上」にあって、ここに湧く泉が「和泉」の国名の元になったようだ。

本殿の横にその「和泉清水」があり、かつては周囲の田を潤すほどの湧水量があったらしい。おそらくはこの泉あっての国府だったのだろう。現在は枯れているが、地下では滔々(とうとう)と流れているのかもしれない。

そのほんの少し先、幹線道路の1本裏通りに入ったら、木を燃やす香ばしい匂いが漂ってきた。「ゆ」の看板が見えて、背後の煙突からゆっくりと煙が上がっている。「泉」をめぐってたどり着いたのは「ラジューム温泉」という銭湯だった。歩いてきた足腰が早くも喜んでいる。

あふれる湯、かけ流しの水

建物自体は戦前からの年季がしっくい壁ににじみ出たような貫禄ある木造だが、正面は昭和中期的に手直しされ、玄関脇にはイマふうにブラックボードの案内板が出されていて、少なくとも三つの世代にわたって維持されてきたことが感じられる。のれんをくぐると昔ながらの番台式だが、意外にもペッタンコキャップの若い男性が座っている。脱衣場との間に壁が作られて中が見えないようになっているのも現代的な配慮だ。

脱衣場の脇には小さな庭いっぱいにコンクリの池がしつらえられ、水の中を大きなコイが2尾、悠々と泳いでいる。あとで聞くと、池の水は風呂用にくみ上げられる地下水で、コイはあっという間に大きく成長するそうだ。

こぢんまりとした脱衣場で服を脱いでいると、女湯との壁越しに小さな子どものかわいらしい歌声が聞こえてきた。

「いーとーまきまきいーとーまきまき……」

久しぶりに聞いたけど、なんてかわいらしい歌なんだろう。瞬時に心がなごんでくる。

浴室はうなぎの寝床的に横幅が狭く奥に長いローカルな造りだが、いくつか驚いたことがある。まず、浴室の床が石畳になっている。江戸期から続く大阪銭湯の伝統的なスタイルだが、今やこれが残っている銭湯は数少ない。

次に、小さな浴室の割に湯船の大きいこと。湯船の占有率はこれまでに入った銭湯の中でもトップクラスだ。湯船の周囲にはこれも大阪銭湯の特徴である「かまち」が取り巻くが、いちばん高いところで40センチくらいあるだろうか。さらにその上に湯船のへり(またぎ)があるから、「いーとーまきまき」のような小さな子どもはよじ登るような感じになりそうだ。池上曽根遺跡ではないが「いずみの高殿」と呼びたくなる。

その大きな湯船はきれいにタイルが貼り替えられ、熱めの湯があふれんばかりに沸かされている。奥のジェットで波打つ湯面(ゆおもて)から底の白い目地までがくっきりと見える清澄な湯だ。そこへ体を首まで沈める。ジュワッ、と音が聞こえそう。熱いけどまったりとやわらかな湯に包まれ、疲れた足腰にじんじんと熱が伝わってくる。

もう一つ気になったのは、出入り口の横にある水鉢の蛇口から水が出しっぱなしになって床の石畳を流れていること。最初は誰かが止め忘れたのかなと思ったが、他の常連客らは気にするようすもなく、湯船でゆだってはその水を頭からザバザバとかぶっている。あとで聞くと、この蛇口は常に出しっぱなしにしているとのことだった。

それにしても、この小さな風呂場に満ち満ちる湯水のなんと豊穣(ほうじょう)なことよ。これはいい、これは極楽風呂だ、豊穣の泉だ。私はしみじみと悦に入った。

上がって番台のお兄さん(岡本陽一さん、45歳)に聞くと、ラジューム温泉は1932(昭和7)年に建てられたそうだ。陽一さんの祖父が買い取った時期は不明だが、陽一さんの父・多賀雄さんは1947(昭和22)年にこの風呂屋の子として生まれたとのことなので、おそらく第二次大戦前後のことだろう。

祖父亡き後は祖母と多賀雄さんが引き継ぎ、陽一さんが生まれた1980年頃に現在の浴室に改装。会社員を14年ほど務めた陽一さんが脱サラで家業に入ったのは10年ほど前のこと。豊富な地下水を薪で沸かすスタイルで維持されてきた。

近所の常連客が多いが、「湯が違う」と遠くからも来てくれる客もいるという。その気持ち、わかる! この風呂はたぶんクセになる。阪和線の沿線に住んでいたなら、私もきっと定期的にこの風呂へ入りに来るに違いない。

風呂上がり、ラジューム温泉と和泉府中駅の間にはアーケード商店街やレトロな商業ビルがあり、歴史ある大衆食堂をはじめ多くの飲食店が並んでいる。魚の新鮮な居酒屋で一杯やって帰るとしよう。

和泉府中にはもう1軒、有楽温泉という銭湯もある。他にも気になる飲食店や好きなタイプのパン屋さんを見つけて、とても一度では堪能しきれない。近場でなんだかいい街を見つけたなぁ、とうれしい気分で帰路についた。

朝日新聞

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