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【堺市】恋焦がれ 求めつかんだ「みだれ髪」 歌人・与謝野晶子 愛への執着(産経新聞)

歴史ミュージアム「さかい利晶(りしょう)の杜(もり)」(堺市堺区)の「晶」とは明治、大正、昭和を通じて活躍した浪漫派の歌人、与謝野晶子のこと。夫の与謝野鉄幹(本名・寛)との情熱的な「恋」「略奪婚」。12人もの子供を育てながら創作に励み、心の病に陥った夫を支え続けた気丈な女性―と学生の頃に習った。だが、一度もその歌を見たことがない。もったいない…。晶子とはどんな女性だったのだろう―。そんな思いでそっと《みだれ髪》に触れてみた。

「夢見る乙女」

旧姓は鳳(ほう)。明治11(1878)年12月7日、堺県に生まれる。大阪府堺市ではなく「堺県」の時代だ。実家は老舗の和菓子店「駿河屋」。父の宗七、母の津祢の三女として生まれた。

阪堺電車の宿院駅近くに「生家跡」があり、歌碑が立っている。「さかい利晶の杜」の展示コーナーには生家の「駿河屋」がほぼ実際のサイズで再現されている。

堺女学校(現在の大阪府立泉陽高校)を卒業。21歳で与謝野鉄幹と出会うまで、晶子はどんな少女期を送ったのだろう。実は産経新聞社には頼もしい先輩がいる。石野伸子さん、筆者より4つ年上。「師」と仰ぐ先輩の一人だ。

平成25年に『晶子の執着』と題し、夕刊に十数回連載した。その石野さんによれば、当時の晶子は「夢見る乙女」だったという。

「取り巻く環境に背を向け、ひたすら、まだ見ぬ何かを求めている女の子だったの」

当時、父親の宗七は晶子を部屋の外から鍵をかけて出さなかった。きっと放っておいたら、どこかへ飛び出していく娘だったのだろう。とはいえ、良家の娘らしく和歌には精通していた。

まだ見ぬ何かとは?

「文芸の灯火や源氏物語に出てくる姫君のような恋ね」

二十歳になって晶子は恋をした。その一人が堺市の電話局に勤めていた森崎富寿。これは淡い恋で終わったようだ。熱い思いを初めてぶつけたのが、近所の「覚応寺」の跡取り息子の河野鉄南。晶子より4歳年上。明治30(1897)年、関西の文学好きが集まって作った青年グループ「浪華青年文学会」(後の関西青年文学会)のメンバーだった。

この幼なじみの鉄南を通じて晶子は後に鉄幹と知り合うのだが、この頃は鉄南に夢中。石野さんによればこんな手紙が残っているという。

《よしや兄様のしもとみだるるとも、よろしく候。略。このもだゆる少女をあはれと思し、何とぞ早く何とか仰せ被下度候、二三日も御返事御まち申してもなき時は、私は死ぬべく候》

なかなか怖い内容である。

「きっと鉄南さんも驚いたでしょうね。でも、彼はその頃の晶子が、恋に恋している乙女―と分かっていた。だからずっと当たらず障らずの対応をとっていたの」

この縁で「覚応寺」では毎年、晶子の命日である5月29日(昭和17年没)に「白桜忌(はくおうき)」として法要を営んでいる。「白桜」は晶子が好んだ桜、ソメイヨシノのこと。

運命の出会い

そして33(1900)年8月、晶子は鉄南の紹介で《運命の人》与謝野鉄幹(寛)と出会う。晶子21歳、鉄幹27歳。この後の流れは有名である。鉄幹には妻がいた。晶子は鉄幹が創立した「東京新詩社」の機関誌「明星」に短歌を発表すると、家族の大反対を押し切って上京。34(1901)年、鉄幹との情熱的な恋、2人の交わりを官能的な歌で表現した処女歌集「みだれ髪」を旧姓の「鳳晶子」で刊行。その年、離婚した鉄幹と結婚。「与謝野晶子」になった。

《乳ぶさおさへ 神秘のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅ぞ濃き》

《みだれ髪を 京の島田にかへし朝 ふしてゐませの 君ゆりおこす》

初めて触れた「みだれ髪」のなんと艶っぽいことか。胸に直接響いてくる。かきあげる指の間から揺れる黒髪…ゾクッとくる妖艶さが映像になって伝わってくる。石野さんはいう。

「パワー(才能)のある女性は相手の男性をものみ込んでしまう。自分を愛する《自己愛》を中心に、男性をも愛の中に縛りつける。それが晶子の執着だったと思う。でも、そんな愛は男の人にとって迷惑な愛よね」

その通りかもしれない。鉄幹と結婚した晶子は「略奪婚の女」として当時の女性たちから批判の対象となった。それでも晶子は愛する人を手放さないために歌を作り続けたのである。

原動力は愛と執着?

晶子は鉄幹(寛)との間に12人の子供を授かる。1908(明治41)年、人気だった『明星』が廃刊となり、自暴自棄となった鉄幹を、晶子は子育てをしながら創作に打ち込み支えた。「さかい利晶の杜」には晶子が創作に励んだ机などが展示され、その横には、歌がびっしりと書かれた屛風が置かれている。

《百首屛風》といって、晶子が落ち込んでいる鉄幹を気分転換のためにパリ旅行へ送り出そうと、その資金作りのために書いた屛風―といわれている。なんとも頼もしい奥さんである。

「鉄幹さんを送り出した晶子は寂しくて、ついに鉄幹さんを追いかけてパリに行っちゃうのよね。子供たちを親戚に預けて…」と石野さん。晶子は本当に鉄幹のことが好きだったのだろう。「愛する人をそばに置いておきたいという、それも晶子の執着だと思う」と石野さんは締めくくった。

約5カ月間の欧州旅行から帰ってきた晶子は変わった。外国の女性たちとふれ合い、「教育の自由」「女性教育」の必要性を痛感。以後、社会運動や教育活動に力を注ぐようになる。何かをつかみ取る心―。晶子の執着心は途方もなく強いのである。

晶子の力強さにあやかる

恋に生きた晶子のパワーで恋愛成就を! 与謝野晶子の生家跡近くにある「開口(あぐち)神社」(堺市堺区)は晶子が子供のころよく遊んだ神社。開口神社では晶子が詠んだ歌で恋の行方を占うおみくじ「晶子恋歌みくじ」(300円)が人気だ。25種類の歌が用意されている。(田所龍一)

産経新聞

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