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【貝塚市】阪神ドラ1→ノーヒッター達成も…縁のなかったマウンド「プロなんて遠い存在」(湯舟敏郎)

阪神に1990年ドラフト1位入団の湯舟敏郎氏

 低迷期の阪神で腕を振り続けたのが1990年ドラフト1位で本田技研鈴鹿から入団した湯舟敏郎氏(野球評論家)だ。プロ2年目の1992年6月14日の広島戦(甲子園)ではノーヒットノーランを達成するなど、インパクトある活躍でも名を馳せた左腕だが、少年時代は「打つ方が楽しみだった」と言う。テレビ中継で阪神・掛布雅之内野手を見て憧れ、1977年に発売された掛布応援歌『GO!GO!掛布』が「初めて買ったレコードでした」と明かした。

1966年10月8日生まれ、大阪府貝塚市出身の湯舟氏は野球との“出会い”を「幼稚園の頃かなぁ」と話す。「4つ年上のいとこの兄ちゃんが近所に住んでいて、野球をしていた。その人も左利きでね。なんか遊びに来たら、グラブを持たされてキャッチボールをやらされたみたいな……。それがきっかけですかね。まぁ、ほとんどの人が野球に興味があるような時代でしたしね」。

 貝塚市立東小学校に入学後も遊びはもっぱら野球だったという。「例えば自分らのクラスで何人か集まったら、半分に分けて野球しようぜ、みたいな感じ。空き地でも田んぼでもしたかなぁ。ボールはゴムまりで、(バットは)その辺の木を拾ってね。そんなんでしたね」。野球漫画にも影響されたそうだ。「テレビで『侍ジャイアンツ』とかを見てね。で、それからちょっとすると『ドカベン』が始まったんじゃなかったかな」。

 小学4年からは貝塚リトルでプレーした。「最初は外野だったと思いますね。4年生と5年生の時は外野で、6年生ではファーストをしていました。エースは後に大学(奈良産業大学)でも一緒になる子(山田俊幸投手)だったんですが、なんでか、わからないけど何回か僕もピッチャーをやりました。もちろん練習試合で、ですよ。たまたま人がいなくて、“お前、ストライク入るやろ”ぐらいの感じだったと思いますけどね」。

 当時は野手が本職。「打つ方が楽しみはありましたね。一応、6年の時は3番を打っていたと思う。でも全然打ってなかったんです。みんなの打率を出したら僕、(打率)1割ちょっとしかなかったんですよ」。チームもあまり強くなかったという。「泉州地域の予選を勝ち抜けなかった。岸和田と泉佐野がすごく強かったですね。岸和田には、1つ下ですけど清原(和博、元西武、巨人、オリックス)がいたんです。その頃から彼は有名でしたよ」。

憧れていたのは掛布雅之

 そんな少年時代の湯舟氏が憧れたのが阪神・掛布内野手だった。「やっぱりホームランを打つ人が光って見えた。サンテレビで阪神戦をよく見ていましたが、もう言うたら掛布さんはやっぱりかっこよかったですよ。レコードも買いましたもんね、掛布さんを応援する『GO!GO!掛布』をね。リトルで流行っていたんですよ。みんな買っていて、僕もって感じで買いました。僕の初めてのレコードだったと思います」。

『GO!GO!掛布』(作詞、作曲・中山大三郎、編曲・若草恵 歌・遠藤良春)は掛布氏がプロ4年目の1977年に発売され、関西を中心に126万枚の大ヒット曲だ。湯舟氏は小学校高学年で、それこそ♪若トラ若トラ掛布 打て打て掛布……と歌ったりもして盛り上がったことだろう。「掛布さんが出始めの頃だし、若くて凄い人だなって思いました。(1978年7月25日の)オールスター(第3戦、後楽園)では3本ホームランを打ったりされましたしね」。

 とはいえ、この頃の湯舟氏は、後にプロ野球選手になるなんて思ってもいなかったという。「野球をやっていたので“何になりたいか”と聞かれればプロ野球選手と言っていましたけど、それもそう言わなきゃいけないかと思って言っていた感じ。プロなんて遠い、遠い存在でしたからね」。メインは一塁手で、投手はほとんどやっていなかった貝塚リトル時代だが、それは中学生になってからの貝塚シニア時代も続く。

 興国高、奈良産業大(現・奈良学園大)、本田技研鈴鹿を経て、阪神ドラフト1位左腕になった湯舟氏は、貝塚シニア・リトル出身者から誕生した第1号のプロ野球選手でもあるが、小学生、中学生での野球は、まず野手としてスタート。サウスポーとして力を発揮しだすのは、まだまだ先になる。

阪神ドラ1→ノーヒッター達成も…縁のなかったマウンド「プロなんて遠い存在」

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